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畑中(はたなか)地蔵
  
畑中(はたなか)地蔵 畑中(はたなか)地蔵
服部邸

慶長13年(1608)尾張藩の奨励で、知多の英比庄から庄九郎始め8名がこの地に新しく村を開拓し、農家の副業として吸収の豊後絞から、絞りの技法(九九利染)を考案した(有松絞の由来)。この功績をたたえ、昭和8年に有松絞商工同業組合が「有松絞開祖竹田庄九郎之碑」を建立。隣には、絞中興の祖鈴木金蔵翁の紀功之碑を移設した。

名古屋市HPより
八龍社(はちりゅうしゃ)
八龍社(はちりゅうしゃ)
桶狭間古戦場跡(公園)
羊神社(ひつじじんじゃ)
羊神社(ひつじじんじゃ)
東八幡社(ひがしはちまんしゃ)

祭神、応神天皇。中根村の鎮守として古くから住民に親しまれている。本田遊無が開祖といわれる「見当流棒の手」が秋祭りの神事として行われており、名古屋市の無形民俗文化財となっている。境内には、「見当流棒の手」の碑や神馬像が建っている。

名古屋市HPより
福田兼助碑

智興寺前に福田兼助の碑が建っています。名古屋西地区近代教育の祖といわれた兼助は、農家の出であったが学問を好み、徳川時代末期に村の子弟の教育に尽くし、明治になり学制が敷かれたときは推されて村校の教師になった人。この碑は門人・知友達が敬愛の念を表すため、明治34年に建てたものです。    名古屋市HPより

冨士浅間神社
冨士権現天満宮(荒子城跡)
創建年は不祥、祭神は木花開耶姫命と菅原道真公である。荒子城主前田利家が勧進した社であり、荒子城の鎮守神であった。境内には、前田利家が越前へ移る際、荒子に残していった馬道具が保存されている。荒子城は、天文年間(1532年〜1555年)前田利昌の築城、利家も居城し、天正9年(1581年)廃城となった。
 城の規模は、「尾陽雑記」「尾州古城志」などによると、東西が約68メートル、南北が約50メートルであった。.
名古屋市HPより
佛地院(ぶっちいん?)
前身は明徳4年(1393)に開創された末寺十数ヶ寺をもつ真言宗の一本山であった。数度の火災のため荒廃したが、寛永元年(1624)二世物道和尚が復興改宗され、陶金山佛地院と命名。十一世鶴峰和尚の代の大正7年現在地に移転し、音聞山佛地院と称するようになった。ご本尊は釈迦牟尼仏を祀っている。大正10年発刊の「東山名勝案内」によれば、「音聞山(現在の御幸山)の西南麓にあり、三方に碧地を控え、最も景勝を占める。」とある。

寶珠院(ほうしゅいん)
堀川堀留跡の碑(ほりどめあとのひ)
堀川は慶長十五年(一六一〇年)城下と熱田の浜を結ぶ輸送路
として福島正則によって開削されたと伝 えられている。当時は名古屋
城近くのこの地で堀留になっていたが、天明四年(一七八四年)に行われ
た 大幸川の付け替え明治十年(一八七七年)の黒川治愿による
黒川の開削、さらに昭和初期の改修を経て現在の姿になった。
朝日橋は天明五年(一七八五年)に初めて架橋され昭和
初期まで橋の下には苔むした石積みの落差工があった。
その水音から「ザーザー橋」と呼ばれたり、お堀の水の落口近く
にあったことから「辰の口橋」、あるいは橋の上を歩いた時の音から「ドン
ドン橋」とも呼ばれ、人々に親しまれていた。
かつて、巾下御門に通じるこの地には多くの船が
行きかい、今の州崎橋付近に至る渡船が始ま
る萬延元年(一八六〇年)頃には、名古屋の交通
の中心でもあった。また、満ちてくる潮にのって、鰹や
鰯がこの付近までさかのぼってきたと伝えら
れている。        
昭和五十九年九月 
       名古屋市
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