昔、南図書館のあたりは塩浜でした。ここから西へ山崎川のほとりで青峰山観音を拝顔し、忠治橋を渡って新田村へと進みます。「黒鍬」と呼ばれた人々による手造りの堤防は台風や高潮でたびたび決壊し、村人は豊穣と安全を願い堤ぎわに神々を祀りました。簡素な社にたたずみ開拓のころを思いおこしましょう。
神明社境内には、戸部下新田開拓のあゆみを刻んだ碑が建っています。
戸部下新田の開拓は、元禄11年(1698)に山崎村理兵衛はじめ4人によって始められましたが、高潮などで堤防が決壊しました。
その後、大野屋嘉兵衛に譲渡され、享保13年(1728)に完成しました。
古図には、新田北の堤防沿いに「御川」と書かれています。これは、徳川の殿様がこの場所でカモ猟をしたことに由来しています。
安政3年(1856)に、名古屋若宮八幡社の神官氷室長冬が旧山崎川跡を新田開拓しました。川跡は砂が多く、水田化は困難な作業でした。40年間は無年貢だったと伝えられています。
若宮八幡社境内に「氷室長冬開墾地」の碑があり、裏面には開拓に協力した10人の名前が刻まれています。入植者は、津島、十四山、立田、荒子方面の人が多かったそうです。
文政4年(1821)に道徳前新田を開拓した、海西郡塩田村(現在の海部郡)の豪農鷲尾善吉の頌徳碑です。区内で最も広い新田でした。
海新田だったため、開拓当初は波による堤防の決壊や風水害に悩まされました。のちに尾張藩御小納戸の手に渡りました。
道徳公園内に建っている碑には、開拓当時から大正4年までの新田開放の歴史が刻まれています。
また、碑の裏には、開拓直後この地に移住した42人の名前が刻まれています。