南区の史跡散策路 新田開発と神社めぐり
 
順路は (1)青峰山観音→(2)忠次稲荷社→(3)戸部下新田の郷土碑→(4)御替地神明社→(5)道徳稲荷社→(6)長三郎新田の郷土碑→(7)紀左衛門神社 →(8)氷室長冬開墾地の碑→(9)道徳公園・鷲尾善吉翁頌徳碑(約6.1km)
   
   
   
 2011年10月1日 南区の史跡散策路 新田開発と神社めぐり に行ってきました。
まあ 南区の半分は 埋立地みたいです。伊勢湾台風では ほとんどが 水没したみたいです。こわいですね。満潮時 2mを超えたりしますが ほとんど0メートル地帯とか。
新田開拓は 江戸時代に始まるようです。すごいですね。
興味のある方は ちらりと こちらのページを ご一読を。

昔、南図書館のあたりは塩浜でした。ここから西へ山崎川のほとりで青峰山観音を拝顔し、忠治橋を渡って新田村へと進みます。「黒鍬」と呼ばれた人々による手造りの堤防は台風や高潮でたびたび決壊し、村人は豊穣と安全を願い堤ぎわに神々を祀りました。簡素な社にたたずみ開拓のころを思いおこしましょう。

名古屋市HPより
01 青峰山観音
青峰山観世音菩薩像は、南区の村々がまだ海に面していたころに、船が出入りする舟江(ふなえ)付近や新田の堤防上に何体も祀られていました。

 水難を防ぐとされ、海の安全祈願のために人々に崇拝されてきました。現在は多くが神社や寺院に移されています。

「青峰山」とは、三重県鳥羽市にある正福寺の山号で、本尊は十一面観世音菩薩です。
名古屋市HPより
この辺りが 海に面していたんだなと 納得してしまいます。一見 お地蔵様では? と思ってしまいました。お寺とかに あると勝手に誤解していました。自転車で延々と 走りましたが 見当たらず。地図をなんども見て ここしかないと 思ってみると 観音様でした。青峰山観音とか標札など ありませんので ご注意を。
青峰山観音
02 忠次稲荷社(ちゅうじいなりしゃ)
忠次新田の開発は、熱田神宮神官の田島肥後によって始められましたが、失敗に終わりました。その後、熱田田中町の井上忠治(忠次郎との説あり)が譲り受け、享保20年(1735)に完成しました。

 境内には、忠治の子孫から滝定助、春日井丈右衛門の両名がこの土地を譲り受けたときに作られた献燈があります。また、昭和の初めに奉納された灯籠の台石に、当時の小作人60人の名前が刻まれています。
名古屋市HPより
お稲荷さんが祀ってあります。道徳東部公園の隣にあります。
忠次稲荷社
03 戸部下新田の郷土碑

神明社境内には、戸部下新田開拓のあゆみを刻んだ碑が建っています。

 戸部下新田の開拓は、元禄11年(1698)に山崎村理兵衛はじめ4人によって始められましたが、高潮などで堤防が決壊しました。

 その後、大野屋嘉兵衛に譲渡され、享保13年(1728)に完成しました。

 古図には、新田北の堤防沿いに「御川」と書かれています。これは、徳川の殿様がこの場所でカモ猟をしたことに由来しています。

名古屋市HPより
読みたい方は こちらをクリック 無圧縮の画像になります。時間があれば 記載します。
御替地(おかえち)神明社
道徳新田は、寛保元年(1741)に尾張藩によって開拓されました。

 昔、天白川の流れを山崎川へ合流させる工事が行われましたが、たびたび堤防が決壊したため、元の流れに戻しました。

 そのとき、天白川の新田を取りつぶし、その替地としてこの土地が開拓されたため、別名「御替地新田」といいます。

 神明社は、新田開拓の翌年に作られたといわれています。

 境内の竜神社には、円空作の竜神像が祀られています。その背には、「氏子の願により、安永九年七月、荒子観音よりお迎えした」と墨書きされています。

 また、新田の歴史を刻んだ碑があります。
名古屋市HPより
東海道新幹線の橋脚が目立ちます。神明社ですので 天照大神。その他 一村一社での為か龍神社 豊玉姫神 秋葉社 熱田社 津島社 池鯉鮒社 稲荷社があるようです。 その他 復興記念碑 保存樹のクスノキもあります。
05 道徳稲荷社
道徳前新田が文政4年(1821)に完成したときに、村内の農民の守護神として創建されたといわれています。境内には、海上守護のために新田の堤防上に祀られていた観音像を移して建てられた「青峰山観音堂」があります。
名古屋市HPより
稲荷社になっていますが 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)も祭ってあるようです。
道徳稲荷社
06 長三郎新田の郷土碑
神明社の境内には、新田開拓の歴史を刻んだ碑が建っています。

 この新田は、元禄9年(1696)に、熱田伝馬役人が熱田宿駅伝馬の助成を目的に開拓しました。後に熱田材木町江戸屋長三郎が譲り受けたため、「長三郎新田」と呼ばれるようになりました。

 寛政5年(1793)に描かれた新田古図には「家数十九軒、人数九十四人」とあります。
名古屋市HPより
長三郎新田の郷土碑
07 紀左衛門神社
寛政6年(1794)に創建されたと伝えられています。

 境内の白竜社には、区内の新田村にはめずらしい「役行者(えんのぎょうじゃ)像」や、庚申信仰を表す「庚申塚の碑」などがあります。それぞれ新田堤防上や水門付近にあったものをここに移しました。

 この地は、宝歴4年(1754)に熱田の加藤紀左衛門が開拓したことから、「紀左衛門新田」と呼ばれています。その後、徳川家の所有となりました。
名古屋市HPより
08 氷室長冬開墾地の碑 (若宮八幡社にあります)

 安政3年(1856)に、名古屋若宮八幡社の神官氷室長冬が旧山崎川跡を新田開拓しました。川跡は砂が多く、水田化は困難な作業でした。40年間は無年貢だったと伝えられています。

 若宮八幡社境内に「氷室長冬開墾地」の碑があり、裏面には開拓に協力した10人の名前が刻まれています。入植者は、津島、十四山、立田、荒子方面の人が多かったそうです。

名古屋市HPより
氷室長冬開墾地の碑
09 道徳公園・鷲尾善吉翁頌徳碑
道徳公園
 区内で最も古い公園です。昭和6年頃から道徳公園として開放されていましたが、昭和16年にボート池や鯨池などの公園施設が整えられ、完成しました。

 この一帯は、新田の払い下げのあと区画整理され、知多街道の脇道にあたる「道徳銀座通り」は、美しい通りとして大須観音通りなどとともに知られていました。

 現在の小・中学校の敷地には、かつて映画撮影所、ボクシングジム、馬場などがあり、にぎわいをみせていました。
鷲尾善吉翁頌徳碑

文政4年(1821)に道徳前新田を開拓した、海西郡塩田村(現在の海部郡)の豪農鷲尾善吉の頌徳碑です。区内で最も広い新田でした。

 海新田だったため、開拓当初は波による堤防の決壊や風水害に悩まされました。のちに尾張藩御小納戸の手に渡りました。

 道徳公園内に建っている碑には、開拓当時から大正4年までの新田開放の歴史が刻まれています。

 また、碑の裏には、開拓直後この地に移住した42人の名前が刻まれています。

名古屋市 HPより
道徳公園
鷲尾善吉翁頌徳碑