有松には東町の「布袋車」中町の「唐子車」西町の「神功皇后車」3台の山車(昭和41年市指定文化財)がある。いずれも精巧なカラクリ人形を乗せた豪華な山車で、10月の祭礼には町内を引き廻され、幻想的な姿を競い合う。館内では3台のうち1台を交互に展示している。
慶長13年(1608)尾張藩の奨励で、知多の英比庄から庄九郎始め8名がこの地に新しく村を開拓し、農家の副業として吸収の豊後絞から、絞りの技法(九九利染)を考案した(有松絞の由来)。この功績をたたえ、昭和8年に有松絞商工同業組合が「有松絞開祖竹田庄九郎之碑」を建立。隣には、絞中興の祖鈴木金蔵翁の紀功之碑を移設した。
建造年代は不詳(江戸末期から明治初年)。主屋は木造2階建の塗籠造で、たちの低い2階は虫籠窓になっており卯建があがっている。倉庫群や荷造りのための作業場が設けられており絞問屋の面影を最もよくとどめている。(昭和39年県指定文化財)
通り沿いは食事などできる場所のようです。奥行きがあるのでので紋関係のものがあるのかも しれません。
江戸時代末期の建築で、主屋は木造2階建、切妻造桟瓦葺で正面に土庇がつき、2階は虫籠窓。特に台所の釜場の壁が柱を塗りこめて波型に仕立てているのは現存唯一の意匠である。絞商の町屋の典型の中でも古いものの一つで、今も幕末期当時の間取りをほぼそのまま残している。
主屋の一階は格子窓、二階は塗籠壁で切妻造桟瓦葺で正面に土庇がつき、隣家との境に卯建がある。塗籠造のうち最も古いものの一つである。明治期まで絞問屋を営んでいた。(平成4年市指定文化財)。
祭神は菅原道真。江戸時代の中期創建。神廟は当初祇園時の境内にあったが、寛政10年(1798)に現在地に移り、文化7年(1810)に神殿を建立し、文章嶺と称するようになった。境内には筆塚などがある。
戦国時代に駿河、遠江、三河の三国に強大な勢力をもつ今川義元が天下統一をめざして永禄3年(1560)5月19日に京都に向って進撃するところを、織田信長が桶狭間にいる今川の本陣を奇襲し義元を討死させた戦城跡である。この地は土地区画整理事業に伴い史跡を移設し、昭和63年桶狭間古戦場公園とし整備された。桶狭間古戦場の標石、今川義元公馬繋ぎの杜松の塚、水汲みの泉などがある。
浄土宗、天文7年(1538)の創建。善空南立上人の開山。この上人は桶狭間合戦のときに今川勢の労をねぎらったという。本尊の阿弥陀如来像は、寺の境内で義元はじめ武将の首検証をして許された義元に仕えていた茶坊主林阿弥が義元の供養のために後に納めたものと伝えられる。寺宝に義元公とその家臣松井宗信の木像、合戦記があり、境内には供養塔がある。